代表執行役:坪井秀行

飲食の王道を走る『本物のお店』の多店舗化を目指し、

『1人でも多くの笑顔』を創造する

初めまして、総代表の坪井です。

現在、弊社は鉄板焼を中心に和食店・焼鳥店と展開しておりますが、それぞれのお店が単一業態・単独店舗として地域に根ざし、その道のトップランナーになるべく奔走しております。焼肉・お寿司・ラーメンとまだまだ日本食の素晴らしさを日本国内や海外の人にも認知していただけるよう『本物のお店』の開発をして【飲食業界の光】となります。

そんな想いに沢山の仲間が参加してくれ、お客様・地域の方から応援していただき本当に心強く、またありがたい気持ちでいっぱいです。

これからも、既存の枠にとらわれない様々なチャレンジを続け、また会社の垣根を越えて全国の飲食店のご支援をして参りたいと思います。

毎日が冒険であり、毎日が成長、共にワクワクし続けていきましょう。

以下 某雑誌 代表者インタビューより抜粋

業界きっての現場力のある個性派集団:GRAILグループを率いる坪井秀行氏。

[新宿を中心にマルチ業態で繁盛店を展開しているプロデューサーであり、今勢いのある飲食店経営者の1人。現在までの成功を成し遂げたルーツに迫る]

母と行った焼肉屋と吉野屋デビュー

早速ですが、坪井さんは少年時代はどう過ごされていたんですか?

岡山の田舎で3人兄弟の末っ子として育ったんですけど、外ではガキ大将タイプで、家では3つ上の怖い兄貴にビクビクして生きていましたね笑 小学校低学年の時に当時毎週親が買ってくれていた少年ジャンプを先に読んだのがバレただけで飛び蹴りされてました。そこで読んだ形跡の出ない激狭な読み方を必死に学びました笑

そんな兄は中学では生徒会副会長、強豪陸上部のキャプテンという文武両道でありながら筋の通った不良で、漫画の世界にいるような人でした。

兄の卒業した年に中学入学すると兄を知っている先生や男女の先輩から結構かわいがってもらえて楽しい思いをいっぱいしましたね笑

6歳から続けていた野球は中1で辞めてしまいました。

それから色々あって、中3の時の陸上の大会で好成績を残したのがきっかけで地元の倉敷ではなく県内で1番陸上が強い高校に行こうと夏から勉強も頑張りました。

名門高校の体育科ではなく普通科を受験し無事に合格、中学の卒業式が終わった後のランチで母親に「焼肉屋」に連れて行ってあげると言われ反抗期ながらも嬉しかったのを覚えています。

1つ上に姉もいたり母親も仕事に出ていたので、家族で町中華やお好み焼屋に行くことはあっても2人きりで外食に行くことは初めての経験?でした。行ったお店は安い焼肉チェーンだったのですが、とにかく美味しくて、炭火で焼いたお肉を口に入れた時の香りと味は衝撃でしたね。

そしてこのお肉の衝撃というのはその日(卒業式)の夜中にもう1度あるんですけど、夕方から友達みんなでカラオケに行って友人宅に泊まってトラブルなく健全に遊んだのですが笑、夜中の2時に人生で初めて吉野屋に行ってそこでまた感動しましたね。

真夜中に【並と卵】というこんなに美味しい食べ物があるんだと。

忘れもしません、思い返すと日付は1998年3月17日でした。 

仲間とのご飯とコミュニケーション力

上京されたのはいつですか?

高校を卒業してから大学入学のタイミングですね。中・高と担任の先生や部活の顧問、生活指導の先生に恵まれたおかげで、教師になるのが目標になり東京の国士舘大学の体育学部に入学し、陸上を続けました。

高校時代は厳しい上下関係のもとで全国トップレベルの陸上部に所属し、勉強もそれなりに、恋愛もしてとにかく忙しい青春時代でした。そんな中でも毎週土曜日は部活が午前中だけなので練習終わりにみんなでお好み焼きを食べに行ったり、食堂で昼ご飯じゃんけんしたり、仲間とワイワイしながら食事するのが束の間の楽しみでした。

たまに自分の分とは別に注文したほか弁(学校までデリバリー)を友達に600円で売ったりしてました笑

大学に入学してからはコンビニや宅急便仕分けのアルバイトをするようになり、その後に経験したのが最初の飲食店でリンガーハットでしたね。

当時自分がよく通っていた店舗でそこの店長さんに直談判して働かせていただきました。

不慣れのホールから始めて、日曜日のピークタイムの厨房を任されるようにまでなりました。

ちょんぽんや皿うどん、餃子にチャーハンと 忙しい時でも 頭を使って組み立てて調理していく楽しさを実感しましたね。 その後居酒屋やファミレスでも調理担当をしていました。 陸上の方は大学1年の夏時から悩まされていた膝の調子が2年生の秋には競技を続けれない程にまで悪化して、モチベーションが低下して退部しました。

自暴自棄になりそうな時に友人が声をかけてくれ、せっかくの東京なので色々な世界を見てみたいと新宿歌舞伎町の世界に足を踏み入れて昼は大学に通いながら夜の世界で休みなく働いて、お金を貯めました。

当時の先輩方からは徹底的にコミュニケーションの仕方と人付き合いの仕方を教わりましたね(それはそれは厳しかったです笑)

念願だった開業と必然だった苦労

どうして飲食業を選んだんですか?

大学にはそれから2年間通い、教員免許も取得して卒業したんですが毎日違う人との出会いや刺激的な仲間との時間が楽しくて、歌舞伎町で働いていました。

それでも24歳になった時に自分の人生や将来に物足りなさを感じて、何か一生打ち込める仕事を見つけなければと思ったのですが、なかなか見つからず、まずは自分の好きなことをと考えました。

すると、自分の一番好きなことは仲間と美味しい物を食べながらお酒を交わし、コミュニケーションする時間だったんです。 

だったらそんな楽しい場所を自分で作りたいと思い、まずは自分の一番身近だったお好み焼屋の開業を目指すことにして料理の世界に入り修行の身となりました。

経営の本を何百冊も読んでお好み焼から鉄板焼、居酒屋からホール接客までとにかく2年半くらいは死ぬ程働きました。

そして27歳の時に経営パートナーである井坂と現在のじゅうじゅう1号店を出店しました。

味や接客、自分の能力には自信があったので徐々に認知されていき売上も右肩上がりで伸びていきました。

しかし、3年後くらいに順調にいっていたはずのお店から社員やアルバイトが辞めていって、ついに営業を回すのが自分1人という日が続き売上も下降しました。

今思うと、自分1人で突っ走りスタッフと距離ができ、うまくいくはずのないやり方で人が離れていき、閉店の危機に追いこまれました。

その頃は毎日自分で仕込みをして運営して締め作業して1日17時間くらい働いてましたね。それで身体はバキバキに疲れているのに悩みが多くて家に帰っても寝れないんですよ。  

その頃が人生で1番辛かったですね。

そこで店舗運営や販売促進はできても、マネジメントや教育の大事さに気付かされました。

特に飲食店の「人のマネジメント」は独特なところがあってロジックで解決しようにも糸口がないんですよ笑

だからこそ自分の主張よりも人の意見を聞くことの大切さを知り、部下の成長して欲しい部分にはとことん本音で注力し(時には本人が気付くまで待ちます)、能力のある人にはどんどん任せていくという手法に変えていきました。 

その時の【人とマネージメント】の苦労を今では全て仕組み化して会社と働く人がwinwinになれるようなシステムを作ったので、チームビルディングも今では得意だと言えるようになりました。

現在は自分の短所を補ってもらえる人材が幹部に揃ってきて全員で会社運営をするようになり、井坂とも強力なタッグを組んで会社を前進させている実感があります。

そうして店舗展開を始めた

飲食業の面白さとは?

やはりお客さんとの距離が近く、ダイレクトに満足感や幸福感を共有できることですね。

人に何をしている時が一番幸せかという質問に【仲間や家族、好きな人と食事をしている時】と答える人はやはり非常に多いです。

これは新型コロナウイルスが収束したらやりたいことの希望の第一でもあります。

そんな瞬間を、ただ胃袋を満たす為の食事の場ではなくこだわりの料理とサービスでおもてなしをさせていただき心まで満たして帰っていただくことは何よりの喜びですし、働きがいと生きがいが同時に感じられる瞬間ですね。

また、現在の自分から感じることは今までの人生の点と点が線に結ばれる瞬間に辿り着いた時ですね。

失敗や遠回りも含めてこれまでの色々な経験が自分を大きくしてくれ、またそれが生かせる仕事だなと。

『心の底から良い仲間』

そんな風に言える仕事仲間とお客様のことで議論したり、ある意味家族より長い時間を過ごしている仲間と志を共有して働くことが何よりの働きがいと思っています。

また最近では人としても成長できる環境になってきたなとも思います。

振り返ってみれば今までの自分が経験してきた『母との想い出』『家族との想い出』『友達との想い出』『仲間との想い出』『喜び、落ち込んだ想い出』というのは食事をしている時が多く印象に残っているので、これからも誰かの想い出の場所として残るような飲食店を作りたいです。

また飲食業界への恩返しという意味でも優れた飲食人をこれからも輩出しながら、次また次の世代の飲食人も輝けるようなお店を展開していきたいと思っています。

また様々な視点からマーケティングとマネージメントを駆使した今の時代に合うやり方で組織作りをして、それを継承し、公認コンサルタントや教員免許の資格を活用して、かつての自分のように困っている経営者を少しでも援助できる活動も現在少しずつ広げています。

人が輝く未来を創造する

どのくらいの展開を目指しているのですか?

経営理念との2本柱であるもう一つのビジョンが、『1人でも多くの「笑顔」を繋ぎたい』ですから、ひとつでも多くのお店を増やしたいと思っています。

具体的には2022年より年間で3店舗の展開をしていき、2024年にはそれを加速させ、7ブランド(業態)が10店舗ずつ70店舗くらいまでの展開の構想はすでにあります。

先程申し上げた通り、やりたいというスタッフの中からどんどん新店舗を任せていきたいなと思いますし、まだ出店していない業態にも果敢にチャレンジしていき、社会を明るくし続ける為の別の事業の世界も視野に入れています。

飲食の世界って、競争が激しいので時には思い切った決断も必要ですし、タイミングは逃さないように常にアンテナは張ってますね。

コロナが落ち着いてきたら海外視察にも何か国か回る予定です。会社の持ってるポテンシャルを最大限に引き出せば世界に展開していくことも今の時期だからこそチャンスです。

国内市場はもちろん、都内だけでも可能性はまだまだありますので若い人材が入社から1年で新店の責任者を任されたり、どんどん社内からチャレンジ出店していって欲しいです。やはり一国一城の主になれば見える景色も格段に違いますし、勉強になりますから。

また、スタッフだけでなくその家族、1人でも多くのお客様、取引業者さん、関係者さん、友人や知人の笑顔が見えるようにこれからも事業展開を続けていこうと考えています。

2022年からはじゅうじゅうのFC展開も視野に入れています。

マーケットから見るとお好み焼屋と街の鉄板焼屋の融合している比較的リーズナブルな鉄板焼屋はまだまだ開拓できると思います。

自分達の蓄積してきた個店としての強みとデータが生かされていると思いますし、そこでアルバイト教育を生かした接客も強いと非常に価値の高い店舗となり昨今のお客様の求めている形になってくると思います。

弊社の業態やレシピはもちろん、接客や人材教育、店舗運営に至るまでオーナー様をご支援していきたいと思っております。飲食店経営に興味のある方は是非じゅうじゅうブランドでお店を一緒にやりましょう。

今後の展望をお聞かせ下さい

まずは、会社を大きくする上でしっかりと組織としての根を張り社内環境を整えることが社員の夢を育み、共に叶える目標を形にすることだと思うのでしっかりと整備していきたいと思っています。

ひとりでも多くの仲間と「夢」を共有して、人生において【お客様に喜びを提供し社会を明るくする】ということを追及していった結果、共に成功することこそが自分達の最大の目的ですね。

飲食人として共に成長し、自己実現しましょう

どんな仲間と一緒に仕事をしたいですか?

『仕事を大事に、仲間を大事に、お客様を大事に』できる人ですね。

自分からやりがいのある仕事にして、お客様を大事にし、社会を明るくする一員となることでより全てがうまくいくスパイラルになると言いますか、自分の考え方(マインド)次第で人生がうまく回りだす瞬間を是非弊社で体感して欲しいですね。

この会社で続けると必ずその瞬間が訪れますよ!

そしてそのようなチームが化学反応を起こすことで店舗にすごい結果が生まれ当然それが待遇面に直結される訳です。

人生において、時間やお金はすごく大事なものであり、それは仲間や家族と有意義に過ごす為のツールです。

「大事なもの」を「大事にできる人」、そんな人と僕は共に仕事がしたいです。

人の喜びが自分の幸せだと思える人は是非入社して下さい、お会いできるのを楽しみにしています。

株式会社GRAIL 総代表  坪井 秀行

1983年岡山県倉敷市生まれ、国士舘大学体育学部卒業(中学・高校教員免許取得)

JADA公認 飲食店コンサルタント・料理人 

夜の街歌舞伎町からレストラン、居酒屋等様々な勤務を経て、27歳の時に起業。

マルチブランドの業態で東京を中心に繁盛店を展開、飲食コンサルタントとしても他業態に渡り

業績向上のサポート、新規出店プロデュース、業態開発、メニュー開発等を行う。